感じたこと・考えたこと
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ホワイトバンド
少し前に読んだ記事
半年ほど前に流行った「ほっとけない世界の貧しさキャンペーン」のホワイトバンド、今はどこに行ってしまったんだろう。世界の貧困に対しての意識は間違いなく高まった、ホワイトバンドのファッション的存在価値とともに。でも今はその意識さえもファッションであったかのように影が薄くなっている。確かにそれが本来の目的でもあったみんなの意識への種植えになった部分はあるのかもしれない。じゃあ、いつ芽が出るのだろうか。

日本は経済大国の役割として世界のたくさんの貧しい国々への支援を影に日向に行っているにもかかわらず、私たちはそれを知らない。政府からそれを明確にするアクションもなければ、どこかで教えてもらえるわけでもない。あるのは税金の請求だけだ。
いろいろな国を旅したとき、嬉しそうに
「これは日本が作ったんだよ!日本は豊かですごい国だね!」
などと言う言葉を聞くと、その微笑につられてとても嬉しい気持ちになる反面、ああ税金こんなことにも使われていたのか、と漠然と少し遠い話に感じることがしばしば。
一人一人が中産階級にあってわずかでも人に差し出せるものやお金を持っているにもかかわらず、ボランティア意識は希薄だ。世界的にも十分な教育水準を持っていながら、中国の言いなりになれとは全く思わないけれど、負の歴史認識が甘く、世界の抱える問題に対してボランティア活動に後進国なのはなぜだろう。
世界の優良企業の条件に社会貢献度と言うものが上げられるというけれど、日本の大企業はその要素を入れると欧米のはるかに規模の小さい会社に抜かれ順位を下げると言うのだから、まさに後進国と言うか・・。国が行う「経済支援」をボランティアと履き違え、公の役割のように思っている部分もある気がする。

ボランティアと言う言葉は少しだけうそ臭い。
無償奉仕は確かに美しい形だけど、どこかに利益の発生する形態がなければその支援は長く続かない。お金っていやな言葉だけど、やはり貧しさはお金のなさから来るものであり、お金を作り出すシステム(生産−物流−販売)を提供してこそ将来が見えるものだ。ただ分け与える精神では一時しのぎになってしまいかねない。そしてそのシステム定着のための教育。教育のない場所では理性的な活動は失われやすく、効率と将来的計画が作られない。
私はちょこちょこレジの横においてある募金箱へわずかでも金額を入れるようにしている。自己満足な偽善的行為と思いながらも。人によってはそれを「だって、ホントにそう使われるかわからないし」と言ってしない人もいる。確かに。でもさ、じゃあ代わりに何かするんか?
募金箱は飾りのような存在になりつつある。そこに置くことがレジを設置する延長線にあるかのように。箱に飾られた内容も漠然とした訴求ばかりで、現実味が沸かない。ボランティアでもそれを促すための戦略をもっと考えるべきで、お金をかけての宣伝があってもいいんじゃないか。
貧しさを救う行為をするときにそれが時として利潤を追求する会社と言う形態になることだってある。そして利益を得る行為がまるで悪かのように、ボランティアを直接投資と勘違いした人たちが騒ぐ。今あるお金をすぐに投資して1年でなくなるなら、半分を会社に投資して2年続く支援をする方がいい。それが人材派遣などによって農業や工業の技術を提供できるものならなおさら。

大きな災害があったとき、キャンペーンがあったとき、日本人は実際にたくさんの金額を集めてきた。具体的な支援に身近な存在がそれを可能にしてきた。同じ活動を貧困に使えたら少なくとも最貧国2〜3国くらいでも救えるんじゃないだろうか。
漠然とした「アフリカの貧困撲滅」
私たちは漠然と食べ物がないことを貧困と捉え、直接支援を試みる。
みんな何かをしたい気持ちは大なり小なり持っている。十人十色で助けたいと心を打つ様々な状況や要因があるはずだ。それが人によっては飢餓に苦しむ子供の姿であり、内戦で地雷を踏みハンディを背負った人の姿であり、医療活動の続ける医師の姿であり、人口増加で行き場をなくした動物の姿であったりする。私たちの胸を打つような効果的な露出が必要だ。
苦しむ姿の露出は道徳的にあまり褒められたものではないかもしれない。でも百聞は一見にしかず。今、貧困のはびこる国に求められるのは実際の支援であり、私たちに求められるのは貧困があふれる世界を意識付けアクションを身近にする要素なのだ。
別の時に見た記事を思い出した。
「某西欧諸国のペットフードメーカーの社長が、自分の会社の商品(=ペットフード)に極めて近い食料をアフリカの飢餓に襲われた国に提供すると申し出た。その倫理的感覚に疑問を投げかける人たちからバッシングを受けた。しかし、もらえるかわからない数年後のとうもろこしなどの食料を待つよりも、もらえるならすぐにでも口にすることのできる食べ物を選ぶんじゃないか。それほどまでに深刻な状態だ」

残念ながら私は行動力もアイデアもない。今は自分にとって価値が見出せる寄付をわずかでも定期的にする。貧しさを救うのは持続的支援。私の些細な支援がどう役に立つかわからないけど続けたいと思う。

ホワイトバンドのCMでセレブが指を打ち鳴らすのは3秒に1回。
それは飢餓で子供が一人ずつ命を落としている時間を意味しているって。その音が少しずつ遠ざかり、いつか次に打ち鳴らされる指の音が聞こえない日が来たらいい。


つれづれと書いた、まとまりのないエッセイでした。

10.Apr,2006

後日追記; 16,Apr,2006  thanks to ぴよさん
自分がした行いについて何も答えが返ってこないから、それがなおさら支援から人の気持ちを遠ざけている。確実に何かになったとしても知らないと、支援への意識が遠のく。
支援を預かった人はその気持ちをうまく受け止めてそれをきちんと落とし込むべきである。みなさんの、あなたの支援はこの物になり、この状況が生まれます。この支援のその後を伝えるために、集まった金額の何パーセントかが使われる。それはNGOなどボランティア団体には不本意な使い方なのかもしれない。それでも、これが支援の持続へとつながる。それこそ最も必要とされる支援の継続の手段になりうる。
ボランティアは一つの産業として成立し、さらに拡大可能な分野である。これもまた読んだ記事の受け売りだけれども、この拡大には企業と同じ、利益(=支援金)を追求する能力が必要だ。